青焔会報 1996年1月号

 
   
勧酒  
米山郁生
 
   

   このさかづきを うけてくれ

   どうぞ なみなみ つがせておくれ

   花に 嵐のたとえもあるぞ

   さよならだけが 人生だ

 中国「唐詩選」干武陵の作品を井伏鱒二の名訳が人を酔わせた。天保二年正月六日に没した良寛は

   散る桜 残る桜も 散る桜

 と辞世の句を詠む。

   永い縁(えにし)も 五月の空の ちぎれ雲

   掌にうけし 花ひとひらの いのちかな

 これは手前味噌 我が父 陽州の辞世の句である。

 人は各々の生きざまの中に、各々の人生哲学を形造る。生きる事、それ自体が人と人との関わりの中で無常感を味わわせてゆく。完璧という生き方はあり得ない。あるとすれば只一つ、生まれ出た瞬間に自らの命を絶つ事だろう。自らの力でそれが不可能である以上、浮世に生かされてゆく事になる。自我を意識したとき、既に親、兄弟、その他多くの柵(しがらみ)の中にいる。動物の命も絶った、植物の命も絶った、そのお蔭で己の命がある。自分でその行為をしていないとしても、暗黙の了解の中でその行為をさせているのである。“それらの命が人間に食べられる事によって成仏出来る”という考え方もある様だがそれは人間の側にたったものの考え方、エゴでしかないのだろう。考えれば簡単に判る事なのだが、だからといってそれを止める事も出来なく、業を積んでゆく。

 人間は偉大なものでも、特別なものでもない。進化した一種の動物であり、進化しすぎる事により総てを破壊する危険性をも孕んでいる。生きようと意識しないままに生かされ、必然的に死を背負わされている。

 その無常

 人の命の呼吸の様に、未来永劫に繰り返し押し寄せる波、新年とは大きく押し寄せたその一つの波であろう。その弱さ故に、その儚さ故に、お互いをいたわり、時には杯を交わそう、酔ってもみよう、このさかずきをうけてくれ どうぞなみなみつがせておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ。

 
   
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