青焔会報 1998年5月号

 
   
ビリ  
米山郁生
 
   

 ある幼稚園での講演で、無表情な線を描く年中の男の子の絵を見た。様々なものを描いてあるのだが、総ての線が一本調子で筆圧が弱く変化が無い。一つ一つのものが、形が曖昧で小さく元気が無い。色は塗られているのだが、無気力で生きていない。講演に母親は参加されていない。園長先生に、本人に逢わせて欲しいとお願いをした。

 一見、おとなしく真面目だが、どこかに影を感じるその男の子は、おどおどとした表情で私の前に座った。絵の事を聞いた。友達の事を聞いた。家族の事、母親の事を聞くと話を逸らす。“お母さんやさしいかな?”と聞くと“今日は雨が降っていない”と答える。“うん、雨は降っていないね、お母さんとよく遊ぶの”と問う。職員室の先生や園長先生を見回しながら“お腹が痛い”と言う。“お腹痛いの、ここかな、こっちかな”お腹をさすりながら聞くと、“わからない”と答える。体に十数か所の火傷や擦過傷がある。二人だけになるために、医務室に移った。ベッドの上で、二人で座り家族の事を聞く、父母、姉と四人家族、外食をする時、いつも自分一人留守番をさせられる。私の手を握ったまま離さない。火傷の事を聞く“転んだ”と答える。園の職員にタバコを持って来てもらい、おもむろに吸い始めた。“お父さんタバコ吸う?”首を横に振る。間をおいてから“お母さんは?”首を縦に、“タバコの火熱いかな”と聞く、“うん、熱い”と即座に答える。“お母さん、タバコの火ジュットやるの”と独り言の様に呟く。体を固く小さくちぢこませて“うん”と聞こえない程の小さな声で答える。言ってはいけない事を、又、叱られそうな不安を見せて私を見る。“うん、いいよ、おじさんは誰にも何も言わないよ、お母さんにも言わないよ。この絵は上手に描けているからね、また頑張ろう、頑張ってるときっといい事がいっぱいできるからね、何にでも負けないぞって、はらのなかで強く思ってると、いい夢がいっぱい見られるよ”“うん”自分自身に確かめるように返事をして、園児の遊ぶ運動場へかけて行った。

 彼が、毎日、その状況と対峙しなければならない不憫さと、己の無力さに苛立ちを覚えた。心配した園長先生には人権擁護委員会への相談と、対策も取らないまま親に言う事は避けるようお願いをした。

 親の思いが、どこかで座礁する。子との接点に歪みが生じる、悲しみは子供の中に満ちる。

 教室で絵を描いている子供たちも、器用さは様々だ。器用に何でも描ける子、一つひとつこだわりを持って、確かめ積み上げ、又、壊す子、自問自答しながら、中々完成しない子、そのどれが良いかは決められない、それぞれに個性やこだわりを自分の中に積み上げてゆく、問題は何も考えないで、器用に描いてしまう事だろう。二十才位迄は不器用でいい、疑問を持ち、確かめ、試行錯誤を繰り返す事だ、自己の中に何か思いが有ると、その繰り返しも大きくなる。周囲には不自然な行為に見えても、本人にとっては、人生の根幹を造る為の土壌造りになるのだ。耕せば耕す程、自分自身は大きく育つ。未消化のままの土に大木は育たない、土を耕し、栄養を培って根を張る事だ。地中に大きく、大きく根を張ることに依ってこそ木は大きく育つ。育つのを急いで早くから成果を求め、もやしのようにヒョロヒョロと木を伸ばしては、何が起こってもすぐ朽ち果てるであろう。

 障害を持つことも、その子を育てる事も、ずっと耕し続ける事なのかもしれない。何処にどんな芽を出そうかと悩み続ける。その努力が深ければ深い程、素晴らしい実が実り、花が咲くのだろう。人間は他人と比べて、表面的な学力や、様々な処置能力を競うのではなく、努力するその過程にこそ光を当てねばなるまい。

 誰もが、裸で生まれ、裸で死んでいく、失う物は何も無い。ドベでいい、ビリがいい、大地に根をはって、逞しく、夢を持ち続けるのだ。

 
   
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