青焔会報 1998年10月号

 
   
偶然  
米山郁生
 
   

 平成9年の夏の高校野球、北海道の大会の中で、45対0、53対1、5回コールドゲームという試合があった。その結果を見て人々はどう感じたのだろう。情け無いと感じたのか、もっとしっかりやれ!と思ったのか、そうか、頑張ったなと。それとも、いいじゃないか53点位、気にするなよ、又来年があるじゃないかと思ったのか。人それぞれの感じ方がある。

 投げても投げても打たれる、いつになったら3アウトを取れるのか、2回を終わる迄に42点を取られ、歯をくいしばって投げた投手の気持ちが手に取る様に感じられる。北海道の事、雪に埋もれて練習もままならなかったのだろう、投手も体調を崩していたのかも知れない。変わる投手も居ない。野球が好きでたまらない若人達が、練習も充分出来ないままに出場する。野球に対する一途な想い、高校野球はその健気さがいい。

 障害者の子供達が絵を描いている。様々な障害の中で、おもいおもいの行動、思考の中から自己の絵を描く。健常者に比べて当然、表現方法が異なる。その表現されたものは健常者に比べ、45対0、53対1の絵であろうか。いや、決してそうではあるまい。それは単純な通俗的な見方でしかあるまい。障害を持った子は、画面に対して一〇〇%、一二〇%の精神を振り絞って描く、持続する時間に違いはあったとしても、絵を描く時は思考、感情、精神力が一体となってその画面に集中する。健常者は描く事に対する冷静な思考が一〇〇%の精神集中力を伴わない事が多い。どこか冷めて、描こうとするものと、描く行為の中で隙間を作る。天才と狂気は紙一重と言うが、ゴッホやムンク、ダリ、エゴン・シーレ、そしてベートーベンや三島由紀夫、多くの芸術家が、その隙間の中で素晴らしい作品を残している。

 障害を持つという事、そして生きるという事はどういう事なのだろう。ある行為をする。それがある山に登る事と仮定した場合、健常者は人の登る様を見て、自分もその道を選び、スピードを真似、歩み方を考えて頂上に支障無く達する。障害を持った子や人達は、その障害の状態によって様々であると思うが、人を真似て要領良くが、まず不可能なのだ。皆の選んだ道が、障害に依って自分の体に合わない時、つまづき、転び、座り込む、時間を掛けて他の道を探す。時には自分の体に合った道具を造りながら又一歩一歩進む。転んだ時々には、道端に咲く小さな草花が眼に止まり、心を移す。心を癒す事に依って生きる事への活力となる。生まれながらに障害を持つという事は、健常者にはとても気が付かない事や、感じない事を、溢れる程に身体に染み込ませて生きて行く事なのだろう。

 我々にとって大切な事は、障害を持った子や人達を、健常者と同じ様な結果を出す為に手を差し出すのではなく、一緒につまづき、転び、座り込んで、そのリズムを待って、一緒に他の道を捜したり、力強く生きる為の道具を一緒に造ったり、共に小さな草花に感じたりする事の方が大切なのではないか。彼らのリズムに合わせる事、そして待つ事、そして共に歩む事が出来れば、我々の意識していない状況から、健常者よりももっと深い、豊かな、暖かい何かが現れてくる様な気がする。

 生まれいづる時、障害を持っていない事も偶然であり、障害を持っている事も偶然である。それはどちらも自分の事なのである。

 
   
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