青焔会報 1998年12月号

 
   
いのち  
米山郁生
 
   

 かれんな五弁の花ビラを寒風にゆらせて、淡紅色の花が咲いている。いのちをひそめ、悲しみをいっぱいつめ込んで、寄り添う様に。花ビラの表面にうっすらとロウの様な膜をはったその姿は、10月頃から四月頃迄の身繕いなのか。小原村の四季桜が見る人の情を誘う。

 教育委員会の青年の家、哲学の講座の中で、小原村に集い“描く事・生きる事”をテーマに若者と話をした。“近頃の若者は”という声は最近は耳にしない。若者より年輩の“立派”であるはずの人達が、新聞紙上を賑わせているからなのだろう。夜半三時過ぎ迄、生きるとは、死とは、人生とは、をテーマに他人との関係、仕事、絵画等との関わりの中で考え、議論する。

 自身、小学四年の頃から、死への願望があった。ある時、漠然と“死にたい”“死のうか”という思いが脳裏によぎった。それ以来、死の意味を考える様になった。人間は自己の願望で生まれてきたのではない。自己を意識した時、己は既に生きていた。自己の意思で生きる事を選択したのではなければ、己の人生は生かされているのだ。では生きるとは、生かされているとは、どの様な意味があるのかを考えた。生きる為に食べる、食べる為に多くの動植物を殺す。己が殺さないとしても他人にその行為をさせている。他の生命を侵さない為には、自己の生命が完全である為には、動植物を食べない事だ。だとしたら自らの生命を断つ事しかない。漠然と脳裏に過った死に対する願望が、自己の中である理論となって成立した。小学校五・六年の頃の事だ。

 本能的に死を考えたという事は、人間の遺伝子の中には“死にたい”“死んでも良い”という細胞が組み込まれているのではないか。“生きよう”“生きたい”という細胞との対峙が、生命体の中で争いあって、その人間の寿命を決定づける。難病からの復活、死からの生還、奇跡的と思われる出来事も、生きようとする為の遺伝子細胞の成せる業か。齢を重ねて体力が衰えてゆくと、気力の中に“もう死んでも良いか”という細胞が増殖してゆく。自己の肉体、精神の中だけでなく、外部からの侵略、流行性や自己の脆い部分からの疾患、自然の猛威や四季の移り変わりの折々の肉体へのゆさぶり、それに対する抵抗力の弱まりが、己の死への細胞を活気づかせるのだろう。ある種の動物の中でも、集団で死の行為に向かわせるという説がある。種が繁殖しすぎると、食料や自然のバランス感覚の中で遺伝子が死へのサインを出すのか。人間の中の“死”に対する思いと、どこか共通性がある様に思う。

 死への願望から、生きようと変わっていったのは、小学校六年の時。父親が消防団の活動の中、近くの家の火事で、火中に飛び込んでいっての消火活動を目の当たりに見てからからだ。動植物を殺す事については、母の奨めもあって教会の日曜学校に通った。弱いもの、悲しいもの、殺傷しなければならないものに対して祈った。中学生から二十才位の頃には、友人達と人間の良心について毎夜議論をした。死を目前にした人達の前で、自らの命を投げ出す事が出来るか否かが主なテーマであった。海や川で、火事現場で、山や孤島で遭難した時、食料が無くなった時どうするか。二人の時、三人の時、多人数の時、様々な場面を想定して議論した。

 人間は生きなければならない。動植物を殺す事は身勝手な事なのだが、宗教心で補い、生きるという意味を祈りの中に昇華させ、その心の中から音楽、絵画、彫塑、陶芸、書、等に感動する心を求めた。生きるという事に決定的な確信を持っている訳ではない。一日一日の行動の中で、一作一作の作品の中で、常に問い掛けをしている。“いのち”が枯れる時、“人生はこうなんだ”ではなく、“こうだったかも知れない”という想いが自分なりに出せれば良いと思う。そして日一日、より深く、より確かに、それを知りたいと思う。

 
   
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