青焔会報 2002年6月号  
   
 
米山郁生
 
   

 会場に入り20枚程の絵全体を見廻した。一瞬心がギュッとちぢこまってゆく様な感じに促われた。体が小さく、小さくなって周囲を用心深く見渡す。いい子でいる為に自己の感情を押さえ自己の置かれた環境に感謝する。少なくともそれが生きてゆく為の最良の方法なのだ。叫びたくても叫べない、泣く事も、我を張る事も、不平不満を言う事も我慢し自分達を取り巻く新しい環境の中で、総ての事に心を配ってくれる孤児院のシスターに感謝する。その為には自分達の感情を殺し、いい子でいなければならないのだ。

 アジアの最貧国と言われる東ティモールの子供達の絵がJR大曽根駅南の商店街オズモールにある輸入雑貨店“オゾン”で展示、と新聞に報道された。見に来た人達の「暗い絵が多いかと思っていたけどけっこう明るい色で描かれているね」とコメントが載っている。見たいと思ったがスケジュールが合わない。

 東ティモールは1511年から1975年までポルトガルの植民地、独立宣言後、インドネシア軍侵攻、この5月20日に独立、新政府が発足。青焔展でスリランカの子供達の絵を展示して今年で7年になる、そのスリランカの養護施設、オヴァ・ママ チルドレンビレッジの里親代表、赤羽氏から便りを受けた「感想を聞きたい」、なんとか予定をやりくりして出かけた。その第一印象が冒頭の一文となる。

 私が絵を見る時、レッスンの時もそうなのだが子供から大人の絵まで総ての予備知識、感情を抜きにして無心になる、その絵に表われた印象、個性を尊重しその絵の中に入り込む、描かれた時、環境、作者の感情、思索、心の有り様に同化する。小さな子供達の絵を見る時はその年齢になる、瞬時の内に同化する、それは同時に一緒に描いている状況をつくり出す、作者の気持ちが己に伝わってくる。

 東ティモールの子供達の絵は確かに明るい、しかし動勢が無い、一様に小さい、線が伸びていない、太陽は描かれているが光を感じない、子供達の自己主張が無い、描かれている事象が作者から遠く離れている、総て己を押し殺して絵を自分のものとして促えていない、それが全体の印象であった。

 人間の中には、総ての動物の中には、生の願望と死への願望の両者が均等を保って存在する、生命はそのバランスの中で自己の体力的状況と、老化への状況を見定め判断を下す。一人の人間としての自我がある。一人の生物としての肉体がある。肉体が体内の様々な機能の中で生死の闘争を繰り広げる、自我が生死の願望を脳を通じて肉体に指令を出す、その精神の在り様が時として常識的な生死の基準を覆す結果をつくる。奇跡的な生存や愚かに繰り返される戦争等はそうした人間の内部にある闘争本能が呼応して拡散するのだ。どんなに精神を病んでいても、障害を持っていても、体力が蝕まれていても周囲からの生への語りかけ、力づけが本人の生存本能を活性化させてゆくのであればマイナスの要因を取り除く事が出来るのだ。

 子供の教育の中で誉める事と叱る事のバランスは本人の向上心、生存本能を高揚してゆく為の躾でなければなるまい。心の解放は感情をはき出す事から始まる。

 東ティモールの子供達のちぢこまった心を温め、ゆさぶって、人間をとり戻してやりたい。

 
   
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