青焔会報 2002年9月号  
   
老画家  
米山郁生
 

 

 

 戦火が治まり五十七年目の夏を終えた。世界情勢は平和とは程遠い。人はなぜ、これ程までに争いを好むのか。生きようとする意志が自らの努力によって、生命力を喚起してゆくのが本来の姿であるべきだが、他を廃斥する事によって自己を防御しようとするのは弱さ、卑屈さでしかない。争いが生命の本能的な働きとするなら、人の意志、善意、良心、弱きものへの慈しみは、いのちとどの様に関わっているのだろうか。

 戦後の特集としてNHKで放送。終戦後、海軍を存続させる為、野村吉三郎元大将ら一部の軍人が、日本再軍備に関する私案として、旧海軍の動向を再動員計画にまとめ、 "旧軍人をこのまま放置すると日本は共産主義に向かう"とアメリカに進言。それが自衛隊への足掛かりになったと報道されていた。歴史が一部の人間の策謀の中で造られる。戦後五十七年、今もその思想が受け継がれているのではないか。自衛隊が有事に参戦する、その姿は明らかに軍隊の復活だ。

 過去、中曽根元首相が"日本を米国の不沈空母に"と発言。我々に衝撃を与えた記憶を拭い去る事は出来ない。自民党政権の元では、時に日本の再軍備への志向が頭をもたげる。靖国神社参拝へのこだわり。福田官房長官の "憲法改正の話も出てくる様な時代になったから、何か起こったら国際情勢や国民が「核を持つべきだ」という事になるかもしれない"という核容認発言。それに対し首相の"どうってことはない"とかばう心理。

 防衛庁の情報公開請求書の個人情報リスト、防衛庁内部部局、陸、海、空各々が、請求者が請求時に記載していない事項、職業や生年月日、思想、信条までも、独自に調整して記載、部内のコンピューターネットワークで回覧していたという事実。福田官房長官、中谷防衛庁長官は有事三法案の担当大臣。アメリカに追随し日本を戦争に巻き込んでゆく可能性を持つその三法案を成立させようとする意志と核容認発言、防衛庁リストは思想的に無関係ではあるまい。そして、住基ネットで国民のプライバシーを探り、個人情報保護法案で政治家を守る。国民を管理するという思想、発想が平和を歪めてゆくのだ。長期政権の中で起きる様々な暴走、失言は氷山の一角。国民の反応を試す為の意図的な行為であるかも知れない。それは個々の部署、個人の暴走、失態ではなく、政権下暗黙の了解の中で、湧き出てくるものなのだ。

 国民が政治をしっかりと見つめ判断する。長期政権が衰えてくる。自己安泰を計り、力に依って支配する構築を計ろうとする。それが様々な所で露見する。権力を持つと支配したくなる。が、支配する為に権力を持とうとする。それはあまりにも精神が貧困なのだ。政治家のオフレコ発言が、本音と建前の裏腹であってはなるまい。

 テレビの終戦記念特集であったと思う。若い隊員を特攻隊として死に追いやった上官が、若い者だけを死なせる訳にはいかないと自ら志願する。しかし妻と二人の子供を持つ二十九歳の上官は、家族の為にと志願を退けられる。何度も志願する。その固い信念を知った妻は、志願を受けられる様にと二人の子供と共に自ら命を断つ。二十九歳の上官は若い兵士の後を追って散ってゆく。数限り無い戦場の出来事のわずか一つを知るだけで、いかに戦争が残酷であるか判るであろうに。

 長野県上田市に、戦没画学生の絵を集めた無言館がある。作家水上勉の息子、窪島誠一郎が館主。そのコレクションの中から"いのちの絵"展として、高浜市かわら美術館で展覧会が開催された。会場に入って二人目、三点並んだ最初の作品、山を描いた "風景"を見た瞬間、私の好きな画家、曽宮一念が想い起こされた。豊かな情感、大地を、空間を一刀両断に切り裂く様な精神の深さを感じさせる描線が心にひびいて心地良く、画家が世間に背を向けて、黙々と己自身の精神に向かい合い葛藤する姿があると感じていた。その幾分の一かではあるが、画学生の作品に見受けられた。名前を見る。曽宮俊一、同姓であった。一念の一を取って俊一、息子だと思った。三枚目の作品の横に紹介文があった。

 大正十年東京下落合に生まれる。昭和十八年十一月、東京美術学校を繰り上げ卒業、後出征。昭和二十年三月二五日、湖北省、光化県老河口で戦死。享年二十四歳。父、曽宮一念は戦死した我が子の事を尋ねられると機嫌が悪くなった。戦後五十年、百一歳で亡くなる迄、一言も俊一の事を話そうとしなかった。そんな老画家が九十歳を過ぎた頃、たった一度 "くやしい"と搾り出す様に娘の夕見に言った。頑固だった父親の、失明した瞼に涙が滲んでいるのを夕見は初めて見た。

 
   
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