青焔会報 2003年8月号  
   
止揚  
米山郁生
 
   

 長崎市の種元駿君が誘拐され4キロ離れた7階建ての駐車場屋上から突き落とされ殺害された。事件当初犯人像を聞かれ、同じ地域の中学生か高校生。母親から溺愛され性的な関心が強く、何らかの体験をしたか、まのあたりに見ていた人物、と答えていた。事実は予測通りとなった。少年の凶悪事件が起こる度に加害者の人権、少年法、育てられ方等が問題となる。決定的な兆候も無く予測する術も無く、打開策も生まれないまま多くの識者のコメントの中で時間と共に風化してゆく。多くの母親にとって“まさか自分の子が”という思いと、“もしや自分の子も”という心配が交錯するであろう。

 この事件は果たして予測不可能であったろうか。様々な報道の中から12歳の少年の人間像を探ってみる。ある中学校の関係者は、幼児がなついていたやさしいお兄ちゃんであり問題行動の無いごく普通の生徒、一学期の期末試験は500点満点で465点、学力は学年トップクラスと発表。しかし他の報道からは“先生に注意されたり、級友といさかいがあると大きな叫び声を上げたりパニック状態になって教室を飛び出して行くという。これは決して学力トップクラスの子の行動ではない。成績を上げる為の記憶力の問題であろう。子供達の成長は学習と情緒面とその両方のバランスによって人間性が伸びてゆく。母親が過保護であると子供はその中の居心地の良さを守ろうとして母親だけを見て育つ、母親の期待に添うべく成績を上げる事のみに集中する。木を育てる時、他の木より1センチでも高く育てようとする。枝ぶりも葉っぱの状態も、花の咲く情感も総て無視して高い木を育てる。当然根っこは木の高さとバランスの取れぬ貧弱な根の張り方をして少しの衝撃で倒れてしまう。彼は成績を上げる為様々な情感を置き去りにした、それが事あるごとのパニックであろう。

 小学校の卒業文集の中で自分の似顔絵欄にドラえもんが傷ついた犬を抱えている様に見える奇妙な絵を描いた由伝えられた。心やさしい人達が見るとその様に見えるかも知れないが、他方から見るとドラえもんの仮面をかぶった本人が犬を傷つけ見せびらかしている様には見えないか。ものの見方は総ゆる方向から見直して確かめてゆかねばなるまい。

 補導後の事情聴取の中で“お父さんが心配しているから帰らなければいけなかった”“泣いて騒いだ。騒がれるのはもうイヤだから放り投げた”“お父さんにはもう会いとうない、可哀想だから。お母さんは知らん、ボクのやった事はお母さんは何も知らんと言うもん。お母さんはそれでお父さんに「あんたが教えたんと違う」と怒るから。お父さんからは何も教わってないもん、それなのにお母さん、あの女はお父さんを怒るから、だからボクは女になるのはイヤだったんだ。”以前に知らないお兄ちゃんに性器を切ると女になれると言われ同じ事をされそうになった。痛くないと言われたもんと語っている。

 駿君を裸にし性器に傷をつけた時に射精したと聞く。自分の欲望を果たした後は駿君は物と化した。母親っ子でありながら母親の事を“あの女”と呼びすてにする心情はなぜか。子供は総て幼児の頃から大人の心の内を見抜くものだ。母親は自己の感情の思うままに息子を育てる。心から母親を信頼する事無く、生活の知恵として母親に合わせていただけの事。無口でやさしい父親にその情感をゆだねていたのだ。

 女性は生理が始まる時、その身体の変化に対応すべく事前に母親から対処法を教わっていたであろう。その時点で一人の女、人間として自立し母親と対等の意識を持ち始めるが、男性は性に目覚める時明確に教わる事はない。友人関係の中から察し教わってゆくのであるが、この少年の様に母親に溺愛され友人関係が孤独であると、性の意識を母親に教わる訳にはいかず曲がった方向に向かいやすい。母親の過保護は、幼稚園や小学校に入った時他の子供達との育てられ方の違いにより、様々な対処の方法が判らず、パニック状態におちいりやすい。その結果いじめられたり、閉じ込もったり、動物や年下の子供達にホコ先が変わってゆく。それに加えて少年は性的関心をも加えてしまっている。
鴻池防災担当大臣が、親も市中引き廻しの上打ち首と発言、その単純な暴言は論外だ。が、殺された子と家族にとって罪の意識も罰を与える事も無いままに、長くても300日程で社会に復帰するとしたら問題だ。果たしてそれだけの短期間で再び事件を犯さない状態に治るのであろうか。

 子供への虐待は罪になる。これは親から子への攻撃的な暴力であるが、子供が他の人を殺害する状況を作る事は親から子供に精神的な暴力を加えた結果ではないのか。法の曖昧さが子育ての中で意識をあいまいにしているのではないか。親は子を育てる義務がある。子供を親の所有物にしてはならない。一人の人格として尊重するとすれば親の身勝手な育て方は許されない。人と動物を同等には出来ないが、飼っている動物が人に危害を与えた場合飼い主は罰せられる、それはその動物が飼い主の所有物だからだ。だとしたら、親が子供を自分の所有物の様に育てているのなら、その育て方に罪があるのではないか。現在は外に表われた暴力、暴行のみが虐待として見られているが精神的な虐待も大きな問題であろう。その線引きは難しい。難しいという理由をつけて問題を置き去りにしてはなるまい。

 絵からその描いた子供達の心の状態を探る講演を幼稚園、小学校等で行っている。あきらかに問題を持っている子の親御さんの出席はあまりにも少ない。先生達からも同様の答えが返ってくる。新潟の7年間に及ぶ女性監禁事件、神戸の酒鬼薔薇聖斗事件その他多くの事件で母親の子育てのアンバランスが一因しているのではないか。当然母親の子育てに配慮するべく父親の影響も大きい。他人の家庭のプライバシーには問答無用と扉を閉ざされるかも知れない、が、事が起きた時、その家族も破滅する。その前に社会、地域が手を差しのべるべきである。政治家やマスコミは多くの事に対処出来る力を持っている、その効力を発揮して頂きたい。

 芸術は止揚であるという。知と情、意のバランスによって素晴らしい作品が出来る。描き過ぎてもいけない、描き足らなくても駄目だ。人も同じである。甘やかし過ぎてもいけない、厳し過ぎても駄目だ。知識と情感のバランスの良さが意志を持っていい人間をつくる。現在の学校教育はその情の部分を欠落させてはいまいか。美術、音楽がそれを補うのだが、実際は削減させられている。

 我々は駿君の心の叫びを、無念さをしっかりと受け止めてゆかねばなるまい。

 
   
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