青焔会報 2007年6月号

 
   
法廷  
米山郁生
 
   

(前号から続く)

“勝訴”

銀行との争いで勝つ事は滅多にないと弁護士と祝杯をあげた。

裁判を終えて感じた事は、これは知恵比べだと思った。原告、被告がいかにして自己の主張を第三者の裁判官に納得させる事が出来るか。正しさを争う事は当然なのだが相手の弱点、盲点をつき、いかに自己に有利な状況を展開させるか。

その論争の仕方によっては、真実を誰も知らない場合、当事者の性格の違いもあるが、誰もが納得する正しいと思わせる理論を展開、真面目さをアピール、情に訴えかけ最後まで強く貫いてゆけば事の真実が逆転する事も充分可能であると感じた。

 2009年5月より裁判員制度が変わる。裁判官三人と裁判員六人が合議、多数決により事を決定する。評決決定の中に裁判官、裁判員各々一人ずつ入っていないと決議されない。裁判員は国民の中から無作為に選出される。全員が事件に対し真剣に取り組むとは限らない。忙しさの余り曖昧に考え、適当に対処しようとする人が一人でも加われば被告の人生を曖昧に左右する事になる。又、秘密厳守。漏示すれば罪に問われる。

専門家でもない一般の市民にそれを強いる事は大きな重圧を課す事になる。家族にも言わずそれを生涯守り続ける事は精神力の弱い人にとって可能であろうか。新しい問題点を提起する事になる。

 犯罪被害者の刑事裁判参加制度が実質審議わずか5日間で可決された。国会の現状では審議されなくとも数の暴挙で何事も可決される。この法案によって法廷が闘争の場となる可能性も起きる。犯罪被害者は当然声を大にし、被告はそれに対し反論する事も出来ますまい。反対に被告が防御、又は反発し被害者に反論、更に傷を深くする様な言動をとった場合、それが有益な場の状況を作るだろうか。対峙する両者は当然自分を有利にする発言をするであろう。

法廷は原告、被告そして第三者、誰が考えても公平な結論が出るべく状況を設定しなければなるまい。一つ間違えば冤罪、誤判事件の被告を犯罪被害者が責め立てる様な状況を作るとしたらあまりにも愚かだ。

 身近な例をあげてみる。

先日小牧教室へ一ヶ月程前に講演をした学校の先生が訪ねてみえた。問題を持った小三の女の子の相談。外国人、母と子、通訳の先生、外国籍の子供達の指導をしている先生の四人。母親が子供の前で言う。うそをつく、わがまま、逆切れ、周りの人が困る事を判っていてする、弟をなぐる、この子が恐ろしいという。

母子に15分程絵を描いて頂く。四人の前で言った。“この子は頭がいい、顔の表情もいいし眼もきれいだ、性格も悪くは無い。問題意識は高く何事にも関心を持ち積極的、意志は強いが少し意固地な所がある。お母さんの方が子供っぽいですよ”

“うそをつくという事は例えばどの様な事ですか”両親が働いている為祖母が面倒を見ている。習い事のプールに行かせようとする。“行きたくない”“では買い物についてきなさい”“いや行きたくない”強引に連れて行こうとする。“プールに行く!”“さっきプールはいやだと言ったのに”うそばっかりという事になる。

子供に言う。“買い物は絶対いやなんだ。買い物に行くくらいなら我慢してプールに行くという事だね!”と言うと大きく“うん”と答えた。万事、総てがこの調子。僅か一言の言葉足らずが大きく感情を害していった。通訳を通して母子が和解。最後は母と子が大粒の涙を流して“お母さん 大好きだもん!”

 外国人の為の先生と日本語を教えている通訳の先生が熱心に私を尋ねてくれた、その熱意をお母さんに言うと、“私たち外国人はこの先生を大好き、頼りにしている”と話す。先生が帰り際“また他の親子も連れて来ていいですか……

 絵画教室でも、特に東京への出品作、批評をする。Aの箇所は素晴らしい、B,Cの箇所を直しなさいと指摘する。本人も納得、しかし作者が気にしているDの部分を大幅に直す。翌週私がB,Cの部分はそのままにしてAの箇所を直しなさいと言う。作者は先生は言う事がその日その日で違う!と言う。

当たり前、私の指摘していない直してはいけないDの部分を直した事によって絵が駄目になったり変わってしまう、それを助ける為に指導が変わる事は当然の事。意味を考えずに言葉だけを取ると先生は言う事がいい加減となる。

物事はどこ迄も論じ尽くす事が必要だが、その時間と状況で短絡的に結論を出してゆくと矛盾は広がるばかり、被害者参加や裁判員制度が感情的な部分で左右されたり、論理的優位性が物事の本質を変えてゆく危険性を放置出来まい。

山口県光市、母子殺害事件の差し戻し審、21人の弁護団。21人も法廷に並ぶのは異様。死刑廃止を主張する思想があったとしてなぜその様な大人数の弁護団がつかなければならぬのか。死刑廃止のパフォーマンスか裁判官への無言の重圧か。一つの事件を利用してその運動を展開しようとするのであれば本末転倒であろう。  

(申し訳ないけれど次号へ続く)

 
   
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