青焔会報 2008年10月号

 
   
 
米山郁生
 
   

 乳幼児の顔は例外無く素晴らしい。純真無垢、あどけなく、何ものにも変えがたい神秘的な空間を持っている。少し大袈裟に言えば、宇宙の広がりを凝縮しているかの様な可能性を秘めている。不思議な事にこの年齢で無意識に描く抽象的な絵が立派な芸術家が描く抽象絵画と全く同じ世界を持ち酷似している作例をいくつも知っている。いや、知っているのではなく、そうした作品を持っている。

 これはどういう事なのだろう。人は生まれ出る時、総ての可能性を持っていたのではないか!それが人間の思慮の狭さから可能性を狭めてゆく生き方をしているのではないか。子供達の眼の輝きは素晴らしい、がその輝きを曇らせてしまうのは他ならぬお母さんである事も多い。

 研究所に入って間も無い頃に、絵が暗かったり神経質であったり、小さく閉じ込められた絵を描く子のお母さんに声をかける。必ず子供の眼の前で語りかける。“お母さん、よく怒るね!”と子供に聞く。100%に近くお母さんが厳しいのだが、“うん”とすぐ答える子は殆んど居ない。
黙ってうつむいて、その後お母さんに判らない様に、気が付くか付かない程の小ささで頷く子。私の質問には答えず、聞こえないかの様に横を向いてチラッとお母さんの顔色を見る子、舌を出して体をよじり“そんな質問には答えられません”とばかりにお母さんににじり寄る子、お母さんの後ろに廻り影から顔をのぞかせ素早くこっくりと頷く子、そんな時の子供の反応は“お母さんの眼の前でそんな事は言えないよ”と眼が踊る。
私の眼を見ると返事をしなければならないので、殆どの子がお母さんに遠慮して、私の眼を見ない様にしている。困惑し、少しオドオドして落ち着きが無い。
しかし、どの子も安心した様子を見せる。“うん、おっちゃんいいとこ言っとる。もっと言って。もっと言ってやって。”と頬がゆるむ。しかし、そんな質問にはっきり答えては家に帰ってからが大変だ。そこは世渡り、一週間に一度しか逢わないヒゲのおっちゃんに同調する訳にはいかない。しかしもっと言って欲しい。

 お母さん、あまり怒っちゃいかんってもっとおこってやって……と。子供の表情は心と直結している。

 大人でもスポーツ選手は記録や勝利への挑戦を目指して心が明解に表われる。特にオリンピック等の大きな大会になると選手の意気込みは並外れている。総ての競技に於いてそのスタート前、試合前の選手の眼光、気迫、鋭さ、精神力が頂点に達した時の力の度合が勝敗を決している様に思う。

 私の脳裡に一人の選手の顔が鮮明に残っている。2004年アテネ大会の柔道女子78キロ超級、塚田真希選手。決して美人ではないが、勝つという執念を持ってその年の彼女の顔は最高に美しかった。というよりどの様な美人の女優も及ばない程のいい顔をしていた。決勝、キューバのベテラン選手ベルトランとの対戦、大外巻込みで技ありを取られ、それを返して後ろけさ固めで抑え込み一本勝ちをした時、勝利寸前の絶対負けないぞという気迫の顔は天下一品であった。

 相撲の場所になると深夜全取組を纒めて放映する。両者の顔を映し勝負の結果を見せてゆくのだが、その時眼力の鋭さを比較、勝敗を予測するとその殆んど80〜90%眼力の強い方に軍配が上がる。それは精神的エネルギーの高揚が眼に現われるのだろう。

 精神力といえば、気になるのが女子バレーボールの国際試合。日本は今一歩勝利に距離がある。その一因に、一点一点、点を重ねる度に試合に勝った時の様に踊り上がり手を取り合って喜ぶ。チームワークを盛り上げるには良いが、その度に精神力が弱まってしまう様に思えてならない。

 動物園と野生の動物の眼の違いが生命力の違いに表われる様に、スポーツも、芸術も総て同じで、いい絵を描こうとする精神力が、眼力、生命力に表われてくるのだ。一本の線であっても、いい加減に引いた線、心を込める、なんとなく、適当に、真剣に、全神経を集中して。各々線の表われ方が違ってくる。

 絵画制作は孤独な作業である。

 人の見ていない所の作業であるからゆえに本心が表われる。その集積が作品となり、顔はその人の生きざまを表わし集大成となる。

 
   
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