青焔会報 2008年12月号

 
   
我即宙  
米山郁生
 
   

 日本表現派展は多くの方々に御来駕頂き盛会の内に終了した。展覧会場で数々小生の絵の意味を問いかけられたが、その場で充分時間が取れなく大変失礼をした。今一度自問自答してその意味を探ってみる。

 この数年、人間とは何か、生と死とはをテーマに描いてきた。それらを考えた時、自然に宇宙のイメージが湧き、宇宙を考えた時宗教的な思考が想い起こされる。宇宙空間のチリは人間を組成している分子と似ているという。とすれば、私達人間の中に宇宙が取り込まれているという事。まさしく宇宙全体の力が我々人間を創り、総ての人間は解け、融合して又、再生してゆく。その繰り返しの中で変化してゆくにすぎない。自己の分子が他者の分子と分解、融合を重ねてゆく。他人を思いやる事と自己を想う事は表裏一体となるのだ。

 人はどの家族の中に生まれてきたとしても不思議ではあるまい。自己の家族は大切に想うが他の家族の事はそれ程にも想わない。それは自己中心的であるか魂がか細いかなのだろう。自分の家族を大切に想う様に他の人の家族をも大切に想う事が人間として自然な事であると思う。

 肉体は物体として遺伝の関係を続けてゆくが、そこに宿る魂、精神は宇宙エネルギーに係わっているのかも知れない。昔から赤い糸で結ばれているとか、偶然の出来事、奇跡的なという様々な事象は、人間を造る組成の分子が似かよった人と人の呼応する現象なのかも知れない。

 人と人の諍いも、蔑視、憎悪、ましてや殺人、戦争などは論外だ。

 生きる、時には人間であり、動物となり、植物となって生き、死に、そして又生きる。死の世界では総てが融合して霊の世界を創り、宇宙エネルギーが一つ一つの生命を全うさせる為に分離、誕生させてゆく。 

 人と人が感じ合う時は+と−の極が程良く調和して和を保つが、お互いの電波の極がぶつかり合う時等には、その波調を除けようとする。 

 時を待つか、己が引くか、相手に合わせる事によって乱れた波調は除々に調和してゆくのだ。が、人間はやっかいなもので、その両者の間に第三者が介入すると事は更に乱れてくる。合うはずのリズムが

 益々狂って諍いの原因は増してゆく。動物は単純、いや純粋なもので、食を満たす為の狩りをする一部の動物が冬に備えるか僅か先の為の獲物は蓄えるが、無尽蔵な殺戮はしまい。植物は更に単調で、足を止められた分、自己の生命の中で精一杯に根を広げるか種子を飛ばすか、時に隣の草木にからむ事位しか出来まい。
複雑なのは人間で、道具と機器、文明の発展に貨幣の価値をつくり上げ進化もしたが、おおきな堕落をした。純粋に生きる事以上に貯える事を覚え、知能を働かせ、そこに欲が加わり、欺き、搾取し、必要以上の備蓄を企てる。人の心と生き方を知った人のみが溺れる事無く、人や社会にいかに還元すべきかに勤める。

 毎年展覧会を見に来て下さる日本碍子に勤めていた頃の先輩が15年程前僧侶になられた。会場で“貴方に一つ聞きたい事がある”毎年小生の絵を見て、その宗教性を感ずるが私自身“宗教”とは何かをいつも考えている、貴方はどう思うかと問われた。
即座に“生きる事”それ自体が宗教だと答えた。人が生きると同時に動物、植物総てが生きている、それらは総てお互いに生きているものを糧にして生きている。その殺生を祈りと願い、そして許しを乞う。そこに宗教が生まれる。宗教というものは宗派や教義に関係なく、総てが同じ根元の中で成り立っており、各々の思惑や勢力争いの為に分離しているのではないか。宗教の為に諍いや闘いが起こる事程愚かな事はない。それは生きている事、又、己自身を汚す事になる。宗教とは生きているその事自体が宗教だと答えた。先輩曰く、お寺では年2回大きな行事がある、その折りに講演を願いたいのだがと問われた・・・・・

 展覧会の作品を語ろうとしたが脱線した。人間の体の構造と宇宙、自然との合致する証しは又の機会を頂きたい。

 夜半4時、研究所の屋上に出る。6鉢程のデンマークカクタスが花実をつけて寒そうだ。教室の中に入れてやる。睡眠時間は50年間程3〜4時間。食事時間も内容も無茶苦茶。それでも先日、主治医が総ゆる検査をして数値はどこも悪くは無いと言って下さった。

 夜12時を過ぎると教室の中の所々でコトン、カチン、バチッ、ドシ、ビシッと音を立て、教室に好意を持った多くの霊、宇宙分子が集まって、俺達は皆を見守っているぞと励ましてくれる。

 誰もが皆 守られているのだ。

 
   
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